後期研修医のjun1です。
先日研修医が漫画を題材にブログを書いていたので、私も・・・。
私が題材にするのは『MONSTER』。
主人公は逃亡中の脳外科医です。
場面は、第6巻・第4章の『男達の食卓』です。
読んでもらえば解るのですが、裏社会の組織の中でお金のために悪事に手を染め、兄弟は敵になり、奥さんと子供は殺された男性Aが出てきます。
その男性Aは、殺されかけたところを、もぐりの医療行為で逃亡を続ける主人公の脳外科医に救われます。
男性Aは敵には死んだと思われ、もう追っ手の事を気にする事もなくなります。
そして隠れ家の屋敷の庭でランチを、逃亡中の脳外科医とその逃亡を助ける愉快な登場人物と食す場面があります。
英語版です、すいません。漫画の海外輸出も当たり前の時代なんですね(P_−)
さわやかに晴れた空の下でのランチです。
そのランチの席で、男性Aは食卓を前に、
『これが食卓だな・・・、ただこういう食卓が欲しかっただけなのに・・・』
という場面があります。
1番左上のコマでそう申しています
この場面を初めて読んだのはもう20年近く前の18歳の時です。
その時、大事なことは美味しい食事を食す事ではなくで、美味しいと感じられる食卓を味わうことなのだ、と思ったことを今でも覚えています。
それ以来、美味しい食卓について考えることが多いです。
先日指導医と、後輩の初期研修医の3人で当直に入りました。
病院で用意された夕飯を3人で食べながら、食卓についてのアレやコレやをお話。
料理の味というのはプロの料理人には敵いません。
お金を取っているのですから、当然です。
しかし、家で食べる手料理はプロの味には及びませんが、感じる満足は同等かそれ以上のものです。
それは、あなたのことを想い作ってくれた料理を、それを感じながら、美味しいと感じられる食卓を囲んで食すからだ、と思っています。
逆に取り敢えず作ったというような料理は家で食べても美味しくないし、デパ地下で高級な持ち帰りの料理を買って来ただけでも美味しい食卓にはならないと思っています。
美味しいと感じられる食卓が必要なのです。
当直に入った初期研修医は女性だったので、未来のことも考えて細々と具体的な話を指南。
お茶漬けを食べる時でも、梅干しの種を包丁を使って取り除いて軽く叩いて小皿に載せて出されるだけで、お茶漬けの味も梅干しの味も変わらないけど、目の前のお茶漬けが美味しく感じられるのだよ、と。
それは、食事は舌だけで味わうものではなくて、心で味わうものだから、ほんのちょっとした気遣いで美味しくなるのだよ、っと
料理はホント気遣いひとつでグンと美味しくなるのですが、それは気遣いの感じられる食事を、気遣いをしてくれた人と囲んで食しているから、それが美味しいと感じられる食卓を形成しているから美味しく感じるのです。
私たちが味わっているのは美味しい食事だけではなくて、美味しいと感じられる食卓も味わっているのです。
だから離婚する直前の夫婦が、いくら高級な料理を食べに行ってもその食事は美味しいと感じられないだろうし、逆に特にこれといった料理でなくても好きな人と食す食事は美味しく感じられるはずです。
味わっているのは料理の味ではなくて、食卓だからです。
よく私と食事に行くお店はどこに行っても美味しいわ、と言われます。
私は心の中で、そりゃ当然だ、だって私と食べているのだから、と思っていました。
傲慢ですかね。
私と食べに行くから、私と食卓を囲んで入るから美味しいと感じられる・・・はず、と思っています。
私と食べて美味しいと感じられないのなら、その人とは長くは続かないでしょう。
などと傲慢なことを書いていたら、入院中の患者さんの食事をしている姿が思い浮かんでしまいました。
患者さんに、どうすれば美味しいと感じられる食卓を入院中に提供できるだろうか?
という難しい課題にぶち当たって考え込んでしまいました。
本当に難しい課題で、それはまた今後の課題としたいと思います。
今日は、ここまでm(_ _)m